考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

本を読めなかったぼくが、もう一度読めるようになったのは?

 

こんにちは。

「ネット心理教育」さんという Twitterアカウント があります。そちらが配信していたYouTube動画を、関心を持って拝見いたしました。こちらです。

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www.youtube.com

事前のアンケート結果で、「双極性障害」を発症してから本を読めなくなったという声が多かったことを受けて、数人での座談会が行われています。本を読めないという状況も多岐にわたっているため、必要に応じて細かく検討しないといけないと思うのですが、次のようなことを感じました。

①この配信の元になったアンケートに応じた双極性障害の当事者は、元々本や読書が好きだった人が多い、

②しかし、病を得てからは本を読めなくなった人が多い、

③そして、そのことを残念に思い、本を読めるようになりたいと感じている人も多い、

ということです。

ぼく自身もこの双極性障害の当事者であり、発症(当初は「うつ病」と診断されてはいましたが)した後の数年は、本を読めませんでした。読もうとしたけど読めないのではなく、そもそもが「読みたい」とか「読もう」とは思えませんでした。

しかしそれが、いつの間にやら読書会を主催し、年に50回以上を開催するようになって数年が経ちました。いったいなぜ、こうしたことが起こったのでしょうか。このことを検証していく中で、本を読めるようになりたいと思っている、かつては本好きだった精神疾患の当事者の方に役立つ何事かが、万が一にでも析出できるようであれば、それは望外の幸運だと思うのです。しばらくおつき合いくださいますとうれしく思います。

「本が読めない」ことの諸相

実のところ、「本が読めない」には、様々な内実が含まれています。その全てをつぶさに検討することはできませんが、数パターンについては考えてみたいと思うのです。

例えば、「①本を読みたいのに読めない」のか、「②本を読みたいと思えない/思わない」の間には、いささか違いがあるように思います。

上に掲げた座談に参加された方々や視聴された方々は、おそらく①の側に近いのではないでしょうか。つまり、本を読むことは「楽しい」とか「役に立つ」といった、価値的なことであると感じている。しかし、何らかの理由が妨げとなって読めない、読書に集中できないということだろうと思うのです。

一方の②の方が、むしろ病態としては強い表れをしているように思います。読みたいという意欲が減退している理由は様々なのでしょうが、その「読めない」理由が①に比べてわかりにくいのではないでしょうか。

しかしながら本稿の目的は、本を「読めなくなったことの理由」を突き止めて、それを解消するためのノウハウをご提供することにはありません。それは精神疾患についての「プロフェッショナル」のお仕事だろうと思います。ここでは、「読めない」ということの表れ方も、その原因も、おそらく様々あるだろうということだけ指摘するに留めておきたいと思います。とはいえ、その現象の仕方や原因について考えてみることは、人それぞれの病状の理解を深める=病識を深めるという側面がありますので、考えてみるといいだろうと思っています。

ぼくが再び「読む」きっかけとなったのは?

次に以下からは、では実際にぼくが本を読めるようになった時期、何が起きていたのかを書いてみます。しかし、先取りして書いておくと、ぼくが「なぜ」本を読めるようになったのかについては「わかりません」でした。これは「思い出せない」ではないことに注意を促しておきたいと思います。とりあえず、ここでは「事実」として記憶されている経緯をお伝えすることにします。

実のところ、ぼくは幼少のころから本を読んでいたということはありませんでした。両親が読書家だったこともありません。人並みよりほんの少し読むようになったのは、学部生になった時です。もっとも、そのころは大学=レジャーランドとさえ言われていたので、遊びに長けていた友人たちからは、少しばかり「浮いていた」かもしれません。幾分かでも集中して本を読んでいたのは20代のことでした。

ところが、30代も半ばを過ぎた頃になると、山手線で通勤していたことや、仕事の疲労が蓄積して、ついには発症に至りますが、読書の時間と意欲を確保できなくなっていました。発症してしばらく後に退職を余儀なくされたあと、再就職でもがいたり、無気力となって布団にくるまっていた頃は、たぶん人生で最も本を読めなかった時期だったと思うのです。

本を読むきっかけ(あくまで「結果的に」ですが)となった本のことは、明瞭に記憶しています。それは、ジブリアニメの『ゲド戦記』が公開される年に、その原作を全巻セットで購入して通読ができたということです。しかし、そのことで自信が回復して本をまた読み始めたというのでは全くありません。不思議としか言えないのですが、この後に、「なぜか」本が読めるように「なってしまった」のです。ドラマティックなことを期待していた人には「申し訳ない」としか言いようがありません。

「読めない時期」は、あっていい。

その『ゲド戦記』が公開されたのは2006年といいますから、もう15年以上が経つことになります。その間、ぼくは読書の「読む」ことが回復しただけではなく、ブログやnoteを書けるようになったり、オンラインが主となりますが、読書会を主催してそろそろ通算で300回にはなろうとしています。これは、15年とか20年という年月を経た効用ということもありますが、「驚くべき」変化であると言ってよさそうです。こうした変化は「あり得る」ことと考えると、逆説的かもしれませんが、人生のある時期、本が全く読めない、あるいは読まない時期があってもいいのではないかとさえ考えられます。それは、例えていうと、お腹がいっぱいになっていて、食欲がないというのに似ているのだろうと思うのです。

時々「勘違い」をしている人を見かけるのですが、本は「たくさん」「早く」読めればいいのではありません。ご飯を「たくさん」「早く」食べられることを自慢しても意味がないように、本を「たくさん」「早く」読めればいいというのは、言ってしまえば錯誤だろうと思います。食事と同じように、必要な量と必要な栄養素を、おいしく、また、必要に応じてくり返して「食べる」ことの方が重要だろうと思います。その意味では、本をある時期読めないことがあっても、卑下したり、焦ったりすることはないと思います。お腹が空くのを待つことも大事だろうと思うのです。また、人生を充実させる読書以外のこと、例えば料理が楽しいとか、スポーツが好きだとか、そういったことがあるのなら、それでいいと考えるのですが、いかがでしょうか。

提案:読めなかったら、書いてみる。

さて、これから書こうとしていることは、批評家で詩人の若松英輔さんの持論の丸パクリなのですが、特定の出典は挙げられません。複数のご著作でおっしゃっているからです。しかし、もはや自分の意見なのか、若松さん一人に帰すべき意見なのかさえわからなくなっていると申し上げておきたいです。

先ほど、読書を食事に例えてみましたが、今度はそれを呼吸になぞらえてみたいと思います。「読む」が「吸う」であれば、「吐く」は何か。それは、「書く」だろうとのことでした。何か伝えたい思いがつのっている状態であれば、一旦は息を吐くことが、吸うためには必要となります。これと同じように、「思い」を「吐いて」、つまり「書いて」みることで、自分の心と身体の内に「吸う」スペースを確保するということです。読むと書くとは、相即の関係にあるという若松さんのご意見には、全面的に同意するものです。

その「書く」は、例えば誰かに読んでもらうためでなくてもいいと思います。書いた時の「最初の読者」は、常に自分です。自分のためだけのメモや抜き書きでもいいのです。手帳や日記を書くのでもいいし、その片隅にでもいいから、「書く」。そのことが、「読む」を準備するのだと思います。

試みとしての読書会

最後に、読書会について少し書いて、この稿を閉じようと思います。ここでは、読書会に参加することが、時として「本が読めない」に効く場合がある点について書いてみたいと思います。これは実は、ぼくの読書会に参加されている少なくともお2人が、実際に読めない時期があったものの、現在では読めるようになっているというご報告に基づいています。

読書会に参加することでは、いついつまでに何々をどこまで読んでおかないといけないということが生じます。こうした強制力が働くという側面は確かにあると思います。しかし、事態はそれほど単純ではないと思うのです。読書会、特に課題テキストを決めて、それについての意見を交換しあうタイプの会だと、席上で発言することが求められます。この「発言する」が、先の呼吸の例に当てはめると、「息を吐く」に相当するものと思われるのです。ここに、吸うと吐くの「サイクル」、つまり、読むと書く・話すのサイクルが確立される契機が発生します。今なら、読書会は読書を促すものであると、確信を持ってぼくは言えるようになっています。

まとめ:コミュニケーションとしての読書へ向けて

この節で、本当に最後です。ここでは、「読書に何を求めるか」について考えて、全体の結びとしたいと考えています。

読書とは、楽しみでもあれば教養を身につけ、人格を高めるとの側面があります。それを求めて本を読んでいる人は多くいると思います。しかし、ここでは「個」の営みに収斂する読書ではなく、むしろ「開いて」いく読書をご提案申し上げたいのです。本を、読書を通じて、また、自分を社会や歴史に対して開いていく、まだ知らない自分に対して開いていく、また、著者や別の読者に対して開いていく。そうしたコミュニケーションの起点として、読書は位置づけられていいのだと、ぼくは考えています。読書についてのイメージを更新することで、また新たに読書への関心が生まれることが期待できると思うのです。

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以上で書きたいことは一通り書けたのではないかと思います。最後までおつき合いくださり、深謝申し上げます。なお、この文章には、カンパを受け付ける機能を設定しましたので、以下に進んでお手続きをしてくださいますとうれしいです。今後の糧とさせていただきたいと存じます。ありがとうございました!

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追記:読書は世界との「関係性」を築く

一定時間「寝かせ」たあとで見直しましたが、書きそびれていたことを思い出したので「追記」といたします。それは、読書とは世界との「関係性」を築くことであったり、再構築するものであるということです。

精神を病むというのは、ぼくの解釈では、人や「世界」との「関係性」を病むことの表れであると考えています。つまり、世界との関係性の不具合なんだと思うのです。

人間とは(もっと言えば「生命」とは)、世界と「情報」を交換することで自らを改編(または「改変」)していくシステムだろうと思います。その意味では、学習や教育も、その「自身の改編」というプロセスの一部です。自身を改編していくことで、環境との「よりよい」関係性を構築し、模索していくのです。当面話題としていた「読書」も、そのための方法であると言えましょう。

では、読書が「できない」というのを、関係性を改善する機能の不具合と捉えてみることはできないでしょうか。それはつまり、逆に言うと、その不具合が解消して、関係性が良好になることで、読書ができるようにはならないかということです。

それには、おそらく「病識」を深めることが不可欠です。自分の病気の特性を知ることで、これから先、何はできてできないのかを知るということが必要なのだろうと思います。世界との関係性を修復するための読書というのも、あり得るのだと思うのです。

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