考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

【投稿】サンクチュアリを見つける(増補版)

こんにちは。

過日参加したZoomイベントで、種々発言をさせていただいたところ、主催の方から「ご発言を会報に投稿してほしい」とのご依頼をいただきました。以下、その「投稿」に手を加えてブログ記事として再投稿いたします。元の文は「だ・である」で書きましたが、本稿では「です・ます」に改めた上で、さらに「追記」をしてあります。

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先日、SNS上で見かけた「YAA!」(日本子どもの本研究会ヤングアダルト&アート・ブックス研究部会)のオンラインイベントに、お許しを得て参加させていただいきました。映画『プリズン・サークル』の坂上香監督の近著『根っからの悪人っているの?』(創元社)を巡ってのZoomイベントです。

この著作は、映画『プリズン・サークル』で撮影に応じた元受刑者からのお二方や犯罪被害者の方を交え、坂上監督をホストとして、4人の若者たちによる5回の語らいを収めています。このオンラインのイベントでは、本著についての語らいが、坂上監督ご本人を交えて進められました。

「本を読んだ方の意見を聞きたい」として、席上「サンクチュアリ(=聖域)」に関して語らいが弾みました。そこでの発言を踏まえ、この稿では、その「サンクチュアリは『可能』か」と言う観点から、試み(と、ご提案)としての「読書会」ということを書いてみたいと思います。

さて、「読書会」とはどういうものなのか。一般的な理解は、実はまだ進んでいないと思います。例えばそれは、「集まって音読するんですか」(それは「読み合わせ」です)という反応が返ってきた時に感じてしまいます。しかしながら読書会とは、一つにはそれぞれが読んで面白く感じた本を紹介し合うものであり、もう一つとしては、特定の本(以下、「テキスト」とする)を読んだ上で、意見や感想を交わし合うものです。この稿では、専ら後者について述べるものといたします。

ここ3~4年のコロナ禍の影響があって、読書会は大きく様変わりしたと言えます。つまり、ZoomやDiscordといったオンライン・アプリを使った、「オンライン」での開催の台頭です。このことは、読書会の開催と参加の敷居を、大きく下げたものと考えます。私は、この読書会を開催する、あるいは参加することは、開催したり参加するそれぞれの人にとっての「サンクチュアリ」につながる可能性が大きいと考えています。

読書とは、原則としては「孤独」「個別」の作業である「はず」であり、また、そうある「べき」とも言えますが、しかしそれだけにはとどまらない可能性もあると私は思っています。

例えば、誰かと一緒に映画を見た時のことを考えてみます。あるいは、食事をした時のことでもいい。見たり食べたりした後で、「おもしろかったね」「おいしかったね」と、言葉を交わすことは、至極自然なことと言えないでしょうか。話が弾めば、映画がおもしろかったこと、食事がおいしかったことが、一層強く味わえるのではないでしょうか。

実は読書も同じなんです。読後感をシェアすることで、それが一層深まります。不思議なことに、本を通してであれば、ふだんなら話さない/話せないことが話せるようになるんです。これは実に、本を、読書を「通じて」、「わたし」を語ることであり、「あなた」を知ることになっています。

もう少し続けてみましょう。実は、読書会の歴史はかなり古いものであると考えています。江戸時代の寺子屋での「素読」も、ある意味「読書会」であったと言えます。さらに、活版印刷が登場する以前、中世のヨーロッパで、大学や教会に秘されていた書物を書き写して伝承していったことも、「読書会」かもしれません。

さらに言うと、イエスや釈尊、あるいはその高弟たちの言葉や手紙などは、信者たちが集って読み、語り合い、励ましあったはずです。鎌倉期の仏僧・日蓮が信徒に託した手紙も、寄り集まって読まれましたし、江戸時代に禁じられていたキリスト教も、ひっそりと、しかし「確かに」読み、語り継がれてきました。これらも「読書会」とは言えないでしょうか。

そう考えると、「わたしたち」の歴史とともに、「読書」あるいは「読書会」の歴史は、すぐ隣りにあったのです。そこに「サンクチュアリ」を見出すこともまた、可能なのではないかと私は考えます。

しかし実は、読書「について」語ることが重要なのではなくて、それを通じた「語り」のうちに、「わたし」や「あなた」が表出され、やがてそれは「わたしたち」となっていくことこそが重要なのだと思います。YAA!の今後のご活躍とご発展に期待しています。

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今回は以上となります。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!