考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

対話を「始める」ために

こんにちは。

今回は、clubhouseで行っているルーム「100分de名著を語ろう」の席上であった発言に促されて考えたことを綴ってみようと思います。今月度(2023年12月度)のテキストは、中江兆民の『三酔人経綸問答』でした。テキスト執筆と番組での解説担当は、平田オリザさんです。なお、放送やテキストは、光文社古典新訳文庫版を基としていました。

 

 

放送やテキストでは、恩寵として「与えられた民主主義」を、恢復されたもの、獲得したものとしての民主主義へと鋳直すための「対話」の重要性が繰り返し強調されていました。

しかしながら、そうそう「対話」が、日常生活の中で生まれるとは考えにくい。何となれば、対話とは「さあ、これから私と対話しましょう!」というようなものでは「ない」からだと思うのです。したがって、標題に掲げているような対話の「ためにする」準備というのは、実は矛盾をはらんだ言い方なのかもしれません。

とは言うものの、これやそれは対話「ではない」、あるいは対話と「似て非なるもの」を比較検討したり、迂回することで、対話「らしきもの」へと近接することは可能なのかもしれません。以下、ランダムに綴ってみます。

まず、対話とは予め用意された結論へと導くためのものではないことから考えましょう。特に、自分が用意した結論へと導こうとするものは、せいぜい「操作」であり、場合によっては「押しつけ」とされてしまうでしょう。大切なのは、未知のゴールや着地点へ向けて、自分を開いておくことだと思います。

そのためにも、「結論」を出すことを急がないことが大切だろうと思います。場合によっては、「この続きは、また次の機会にしよう」との態度も必要かと思います。話し合っている限りにおいては、最悪の事態=殺し合いにはならないからです。そういう点では、対話とは、対話を続けること「自体」に、コミュニケーションが継続されること自体に価値があるものなのかもしれません。

もう1つつけ加えます。今までのことからすると、「択一問題」は、少なくとも対話「ではない」ことがわかってくると思います。「AかBか」ではなく、オープン・クエスチョンは基本的な態度なのかもしれません。

もう少し続けます。対話とは、会話や雑談、またはおしゃべりや相談など「ではない」とすることは可能です。しかし、そういったことが素地として日常的にできていないところには、対話は少なくとも生まれにくいのではないでしょうか。つまり、日常的に自分の頭で考え、自分の言葉で語ること。これが「特別なこと」ではないようにしていくより他には、豊かな対話は生まれにくいのだろうと思っています。また機会があれば、考えを深めていきたいと思います。

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今回は以上といたします。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!