考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

【ある視点】宮本輝『流転の海』をめぐって

こんにちは。

私はDiscordというコミュニケーションアプリを使ったオンライン読書会を主催しています。この会は、月2回の月曜日20:30からの120分前後の語らいの場としています。現在の参加者は3~5名ほどですが、毎回充実した話し合いが持たれていると自負しています。

 

 

このシリーズは宮本輝さんが35年をかけて完結させた9部作で、読書会はその全巻を読破しようと企画しているものです。今まで既に丸1年を費やしましたが、まだ4部までを終えたところで、完結までにはまだ2年くらいはかかりそうな感じがしています。

作品では、50歳にして初めての実子を得た実業家の松坂熊吾と妻・房江、それに宮本さんご本人がモデルと言われる伸仁の3人が中心となって織りなされる、眷属(=けんぞく。仏教用語で、縁ある、性向や傾向性が似通った者のこと)たちの小宇宙が描かれていきます。昭和22年に伸仁が生まれた後、熊吾が没するまでの年月が丹念に綴られます。

この作品を読んだ人は、これを「父子の物語」として読むでしょうが、宮本さんご自身は第1部の「あとがき」に於いて、次のように書いています。

〝父と子〟を書くとき、そこには必ず〝母と子〟が存在することを、私はいま思い知らされています

(文庫版第1部『流転の海』解説より。1990年、黒井千次氏の引用による)

 

この点について、読書会参加者のお2人からすばらしいご指摘をいただいています。一つは、既に以下のURLで公開したもので、重要なモチーフとしてしばしば登場する白い蓮の花(白蓮)は房江さんを象徴するものであって、それは「生命の真実」を明かしている仏典をも表している。そして熊吾は、それを伸仁に伝えようとする仏典の翻訳者・鳩摩羅什(くまらじゅう)に当たるのではないかとしたものです。

 

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もう一つは、教育を受けられなかった生い立ちに強いコンプレックスを抱いている房江さんに対して、伸仁が教育面や体力面で凌駕するようになった時、2人がどう振る舞うのかがとても気になるというご指摘です。これも実に鋭いと思いました。実はこれについて、私には思い当たる節があったからです。

私の母は、中学を卒業してから、いわゆる「金の卵」として上京し、住み込みで働いていた勤務先の縁で父と結婚し、私を含めて四子をもうけました。私は小学校のころ、教わっていた歴史についてたいへん興味を示し、新しく知識を得たことがうれしくて、毎回のように母に今日はこんなことを教わったと報告をしていたのです。

しかし、ある日担任の男性教師に呼び止められて、「お母さんは十分な教育を受けてこられなかったんだから、得意気になって話をするもんじゃない」と注意を受けたのです。

何が悪いんだろう? 担任は、あたかも私が、母を小馬鹿にしていることを非難しているような口調で語ったのです。私はショックでした。教わったことがうれしくて母に報告していたのにも関わらず、母はそれを「自慢」と受け止め、自分が馬鹿にされていると感じていたのだと、私には思われたからです。つまり、少なくともそれからしばらくの間は、母は私を拒絶していたのだと思っていました。

長ずるようになって、私はそれを、母のコンプレックスの現れと感じるようになり、多少は赦せるようになりました(が、根には持っています)。房江さんと伸仁くんの間にも、このような「軋轢」が生ずるのでしょうか。今、とても気になっているところです。今後の展開を待ちたいと思います。

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ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。「本文」は以上となります。もし、この文章をお気に召してくださいましたら、以下に進んで「カンパ(=ご購入)」の手続きをとっていただけますとうれしいです。資料購入等に充てさせていただきます。それではまた!

 

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