考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

『流転の海』シリーズ小考~松坂熊吾=鳩摩羅什!?

 

こんにちは。

少ない人数ではありますが、ぼく「たち」は宮本輝さんの大河小説『流転の海』シリーズ全9部を読書会で完読しようとしています。現在第4部『天の夜曲』まで読み進めており、この巻もあと2章なので7月中には完結しそうです。8月の1回目(8月7日を予定しています)には、第1部から第4部までを軽く復習するのと、第3部と第4部のあとがきや解説を読むことにしようと思っています。ご関心をお持ちいただけたら、ぜひお問い合わせください(Twitterアカウント @Showji_S )。

ここではまず、全9部各巻のタイトルと発刊年を記しておくことにしましょう。

第1部:流転の海 1984年6月刊

第2部:地の星  1992年11月刊

第3部:血脈の火 1996年9月刊

第4部:天の夜曲 2002年6月刊

第5部:花の回廊 2007年7月刊

第6部:慈雨の音 2011年8月刊

第7部:満月の道 2014年4月刊

第8部:長流の畔 2016年6月刊

第9部:野の春  2019年10月刊

これらは、著者が37歳から71歳にかけて執筆されているものです(以上、堀井憲一郎『流転の海読本』から)。

この『流転の海』シリーズは、主人公の松坂熊吾と妻・房江、実子の伸仁の3人が中心となって進む物語で、昭和22年(伸仁生誕)から40年(熊吾没)までを描いています。登場人物も1500人以上とも言われているようです。伸仁は、熊吾が50歳になった時に初めて授かった実子で、このことが熊吾にもたらしたものが綴られていくとも言えましょう。

40歳で徴兵されたのち、熊吾は中国から生還しますが、戦前に手がけていた事業はほぼ壊滅していました。大阪で事業の再建に奔走するも、人々との邂逅、裏切りがあり、やがて成長しつつある伸仁と房江の健康を慮って、事業をたたんで故郷の南宇和に行くことを決めます(第1部:流転の海)。また、この第1部では、かなり詳しく房江の半生と、熊吾との出会いが綴られています。

南宇和での3人の生活が描かれる第2部(地の星)では、熊吾をつけ狙う男や、選挙参謀にと頼んでくる漁師の網元など、印象的な人物も描かれます。しかし、南宇和での生活に退屈し、事業欲に火がついた熊吾一家は再び大阪へと戻ります。いくつかの事業を軌道に乗せた一方で、洞爺丸台風で財産の半分を失うなどの苦境にも立たされます(第3部:血脈の火)。

そうしているうちに熊吾は、富山で起業するという男に乞われ、大阪での事業を投げ打って富山に向かいます(第4部:天の夜曲)。しかし、その富山は熊吾の安住の地ではあり得ず、房江と伸仁を残して独り大阪に戻ってしまいます(今、この辺りを読んでいるところです)。

この「大河小説」では、戦後史上の実際の出来事も、かなり克明に描き込まれています。特に、一般市民の生活に深く関わりそうなことを描いているのです。とりわけ、戦争を起こした指導層に対する怒りは凄まじく、その意味では徹底した反戦文学であるとも言えると思います。

その一方で、人の心の機微についても、相当に深い考察がされていると思います。特徴的なのは、仏教的な視点から人間の心理について肉迫している点です

(この点については、以前このブログでも、「提婆達多」についての言及をしたことがありますが(→23/05/02 付の記事)、ちょうどその頃に第4部を読んでいたのでした)。

ここでの「仏教的観点からの論及」というのは、人間の「こころ」に着目するのではなくて、一歩深く、「生命」という次元で考察している(のではないか)と感じさせられるからです。このような補助線を引くと、著者の宮本輝さんは、いわば「生命論」的に人間を見ているとさえ言えるのではないかと、ぼくはつい考えてしまいます。

そうこうしているうちに、読書会の参加者さんが、すばらしい文章を発表してくださいました。

 

note.com

 

筆者のimogineさんの中で、「宮沢賢治」「法華経」「流転の海」が混然一体となったのでしょうか。房江=法華経、熊吾=鳩摩羅什という解釈は圧巻でした。

実は、この記事のきっかけは、ある意味ではぼくの発言がきっかけと言えるかと思います。房江さんについて熊吾が、「蓮だ」と述懐するのは一度や二度のことではありません。この蓮を、ぼくは特に考えずに白いものと感じ取っていました。繰り返し書いて来ている通り、ぼくは仏教系の信仰を有しているものと自認しているのですが、その信仰の世界では、蓮=白が「デフォルト」なのです。さらに言うと、「白法」「大白法」というと、聖なる教え、正しい教えということであって、それはなかんずく「法華経」を指しているのです。つまり(白い)蓮=法華経と言えるわけですね。

さらに。蓮は泥の中から清らかな花を咲かせます。このことは、濁世にあって清い教えが確立されることや、人間という、いわば穢れをもった存在の中にこそ「聖」性=仏性が秘められている、あるいは、宿されているということとも「直結」しています。

宮本さんは、第1部の「あとがき」(文庫版未収)で、次のように述べています(黒井千次さんの「解説」より)。

”父と子”を書くとき、そこには必ず”母と子”が存在することを、私はいま思い知らされています

『流転の海』シリーズを、父子の物語として読む人は多いと思いますが、熊吾という「鳩摩羅什」を介しての房江ー伸仁という母子関係をも描いているのがこのシリーズなのではないかということです。

続けますね。蓮が泥の中から咲き出でることは先述しました。この「泥」を、「民衆」という汚濁として、その中にこそ、生命の真実(の教え)としての法華経(に象徴されるもの)が宿されている、それを謳い上げたいというのが、宮本さんの意図だったのではないかと、ぼくは思うのです。

そろそろ集中力が尽きつつあるようです。今回はここまでとさせていただいて、機会がありましたらまた論を立てたいと考えています。お読みくださいまして、ありがとうございました。

 

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