考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

極端の時代としての現代

 

こんにちは。

先にも述べているように、この「はてなブログ」には有料でのご講読機能を導入してあります。現在はまだ試験的な運用段階ですが、徐々に整合的な運用をしてまいりたいと存じます。まずは、全文をお読みいただいたあとで、「おひねり」的な感覚でご購入を判断くださいますと幸いです。もちろん、それには及ばないとお考えの場合は、購入のお手続きは不要です。

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ある時代について、それを「〇〇時代」というように、端的に言い表している言葉は何かを考えることがあります。今までにも、大航海時代とか、戦争の世紀とかと言った言い表し方がありました。

では、今わたしたちが生きているこの時代は、どんな時代なのでしょうか。それを少し考えてみました。以下は、ほとんど戯言のようなものではありますが、少々おつき合いくださいますと幸いです。コメントも残せるはずなので、お書き添えくださるとうれしく思います。

まず、ぼくは「現代」を際立たせるために、その対照としての「近代」を考えてみました。これはある意味、操作的・作業仮設的に想定した「近代」なので、かなり抽象化・単純化したものでしかありません。その点はお含みおきくださいますようお願いいたします。

ここではまず、近代を「バランスを志向した時代」なのではないかと想定してみました。象徴的なのは、「三権分立」という政治上の制度設計があったり、「バランス・オブ・パワー」といった国際関係における「均衡」を目指した時代があった(あるいは、「であった」)ということです。つまりこれらは、相異なり、場合によっては対立する諸要素を敢えて取り入れ、対立ないしバランスさせることで、全体としての延命を図るということです。他には例えば、自由と平等という、同時には成り立ちにくい諸原理を「同時に」追求しようとすることで、その一方、つまり自由なり平等なり「だけ」が、もう一方に対して優越することがないようにすることを目指していたように思われます。複数の諸原理の中の、何か一つが突出することがないようにしたのだろうと思うのです。

しかし時を経て「現代」となった今、様相は変わってきています。否、変わってしまったのが「現代」だと言えましょう。以下では、バランス志向の近代が、どう変わったのかについて考えます。すなわち、「極端」の、または「極端志向」の時代としての現代ということを考えて行きたいと思います。それを端的に「一人勝ち」として言っておきたいと考えます。それが最も顕著に現れているのは、やはり経済の分野であり、経済の原理の、場合によっては「独走」や「暴走」として観察されてくる点であると言えます。つまり、「〇〇原理主義」とか「〇〇至上主義」として現れてくるもの、例えば市場原理主義とか、自由原理主義ということだろうと思うのです。

「近代」は、本来的にバランスをとるべく「諸」原理を内包していました。しかし、「現代」ではそうした相互にバランスを取ろうとする契機がそもそもない、または減退しているために、単一の原理の独走に歯止めが利きません。先の例で言えば、「市場」なり「自由」なりを、抑制しバランスを取るための対抗原理をそもそも逸しているのです。こうして一人勝ちした単独の原理が「独走」することとなります。

ではどうしたらいいのか。以下は、かなり「ロマンティック」な考察になると思いますが、やはり暴走している(あるいは「しかかっている」)価値原理を抑制する、場合によっては「上位の」原理を想定し、インストールすることなのだろうと考えます。そうした「上位の」価値原理とは、いささか気恥ずかしいのですが、「人間」であり「生命」であって、もう少し説明的に言うと、「生命として存する人間」を「原理」とすることだろうと考えています。

今回はここまでとしておきます。もしかすると、続きを別稿として立てるかもしれません。応援いただける方は、「おひねり」的にご購入いただければと思います。ご検討ください。目安として、¥300程度の記事を、月に3~5本程度書いてみたいと考えています。それの見込みが立ったら、月額制でのサブスクリプションを導入しようと思います。

 

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