考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

100分de名著テキスト『福音書』を読みながら

こんにちは。

今月(23/04)のEテレ「100分de名著」は『新約聖書』の福音書がテキストで、担当講師は若松英輔さんです。これはまだ前半の2回を見て読んだだけなのですが、ぼくが奉じている日蓮仏法とも、著しく共鳴しているので、ちょとそれを書いてみようと思い立った次第です。おつき合いくださると幸いです。

 

100分de名著テキスト目次

・はじめに 神のコトバと対話し、自分自身と向き合う
・第1回 悲しむ人は幸いである
・第2回 魂の糧としてのコトバ
・第3回 祈りという営み、ゆるしという営み
・第4回 弱き者たちとともに

 

ぼくは、若松さんのご本については、既に10冊以上を読んでいると思います。今回のテキストでは、「言葉とコトバ」ということをかなり前面に押し出されているように思いますが、これは、若松さんの思想と実践における「キー概念」であると思っています。

この「言葉」というのは、文字として書き表されたり、音声として発せられたりしている、いわば「言語」としての機能を担っているところに相当します。あるいは、「情報」の部分に相当するものとも言えると思います。

しかし、その背後ないし、奥や裏には、言語や情報「ならざる」もの、それを便宜的に「コトバ」と書き表されているのですが、意味の「顕われ」として「コトバ」の世界があるとしているのです。例えば、彫刻家にとっては「形」、画家にとっての「色」、音楽家にとっての「旋律」などが、「コトバ」の世界として開けているとしています。

さて、ご承知おきのように「福音書」はイエスの言行録です。そこには、イエスが起こした様々な「奇跡」も記されています。その「非合理」は、信仰心をもってしなければ受け入れられないとされてきたと思うのですが、若松さんは、「言葉/コトバ」の重層性を鑑みながら読むとよいと書かれています。そうして開けてくるイエスが示す「コトバ」の世界が、思いがけず仏教(の真髄)と相通じている。そのことが書ければ、この小考は成功です。以下では、特に「第2回 魂の糧としてのコトバ」の章を中心として(3回と4回は、未読なのです)見ていくこととしたいと思います。なお、引用はテキストの記述順に行われることをお含みおきください。

「み言葉は神であった」。言葉が神そのものだった、というのです。

翻訳では「み言葉」となっていますが、原文のギリシャ語では「ロゴス」と書かれています。ロゴスこそ、コトバそのものだといってよいと思います(p.44)

ここでは「ロゴス」とは何かについての説明は、あまり為されてはいませんでしたが、差し当たって、「理法」と当てておきたいと思います。

実は、仏教からのキリスト教の批判の一つに、キリスト教は「人格神」を据えていることに限界を見ている点が挙げられます。これに対して、仏教では「法(ダルマ)」が据えられます。しかし神が人格的な存在としてではなく、より抽象度の高い「ロゴス」=「コトバ」として「在る」のであれば、それは「法」とほとんど変わりはありません。

石が「パン」になる、とは、役に立たないはずのものが、この世の価値あるものに変わるということです。しかし、イエスはこうしたことにまったく関心を示しません。そればかりか「神の口から出るすべての言葉」こそ重要であると説くのです(p.47)

役に立つ/立たないというのは、極めて人間的・世俗的な尺度であると思います。ここで、無意味が意味に転換することだけでも驚きなのですが、そのこと自体ではなく、いわば、意味を意味たらしめているもの(あるいは、コト)こそが重要だということなのではないでしょうか。

→追記①も参照ください。

ここで注目したいのは、イエスの与えるコトバは、渇きを癒やすだけでなく、その人自身の中に泉を湧き出させる、と述べられている点です。さらにイエスはその泉は、けっして涸れることがないとも言うのです(p.51)

ここでの記述では、価値ないし意味の源泉は、各自の内側に既に「在る」のだとされています。しかもそれは、枯渇するということがない。これは、仏性または「悟り」は万人に宿っていることと響き合っています。さらに、

ここでの「水」は、神のコトバです。それもまた、誰かと分かち合うべきものであって、自分だけのものにしてはならないとイエスが言うのです(p.52)

とあります。独占してはならない。特定の、特権層だけのものではなく、万人に開かれていることが重要です。

エスは弟子たちに「あなた方には、すでに豊かにパン=コトバが宿っているのに、なぜ『持っていない』といって論じ合うのか」と言うのです(p.57-8)

ここも、自分(の内奥)以外のところに「仏性」を求めてはならないとする点に通じています。

→追記②も参照ください。

ここでイエスが語りたいのは、弟子たちはすでに、与えられるだけの存在ではなく、与える主体でもある、ということです(p.58)

この点も、仏とその弟子との関係性と親近しています。仏弟子は、救いや悟りをただ与えられる存在なのではなく、師=仏とともに衆生を導き、救済していく存在です。その点では、仏と弟子に「差異」はないのです。イエスや仏が、隔絶した存在なのではなくて、今・ここの自分自身とも地続きであることを言っているのだと思うのです。

→追記③も参照ください。

そしてこの章は、

ここでの「石」は、語ることを奪われた人たちの象徴としても読むことができます(略)彼は「石」の声、つまり、虐げられた人の声にならない呻きをけっして聞き逃さない、というのです(p.61)

と結ばれます。ぼくは常々、もっとも困難だった人、もっとも苦労した人こそが幸福にならなければならないと教えられてきました。そのこととも響き合っているのです。

          *       *       *

追記① 煩悩即菩提ということ

煩悩つまり、迷いや悩み、苦しみといった、できれば避けたい、あるいは不要なものととらえられていることが、「即」菩提、つまり悟りに通じているということと呼応すると感じました。ここでは、「即」ということが大切です。即というのは、イコールということと等質ではありませんが、そのままという意味合いが込められます。迷いや苦しみは、むしろ悟りの「燃料」となることさえあるということです。もちろん、「石」が煩悩、「パン」が菩提と対応しています。

追記② 迷い・無明と、法性ということ

これも①と関連していますが、不幸の根本原因を、「元品の無明」ということがあります。字義通りに、悟りや法理に「暗い」、あるいは迷っているということです。

仏教では、「衆生」つまり万民は、本源的に仏性を有する「仏」と説かれます。それを知ることが「悟り」であり、仏性を開くと言うことにもなります。そうであるにも関わらず、あるいは、そうと知らずにいる「暗い」状態でいることが、不幸すなわち、迷いの原因であるとしています。

他の世界(例えば極楽浄土に「生まれ変わる」こと)や、自分以外のところに、金ピカの仏像のような仏になることが成仏であるというのが間違いだということだろうと思うのです。

追記③ 地湧の菩薩ということ

法華経において、末法に仏の教えを広め、万民(衆生)を導く菩薩たちのことを「地湧の菩薩」と言います。これは、現代的な言い方をすれば、「民衆」に他なりません。民衆とは、救いを待ちわびる消極的な存在なのではなくて、自らが化導(教え導く)する、主体的で積極的な存在であり、仏と常に共にある存在だと説かれています。

          *       *       *

以上、学んだり教わったりしてきた仏教のことと、キリスト教との間には、差異はもちろんあるものの、驚くほどの共通点、響き合う点が見出せました。

まだ、放送は3回と4回とが残っているので、これらを見た後に、まだ書き足せることがあれば別稿を用意したいと思います。そこでは、「コトバ」と「経」ということなどについても考えられればと思います。追記も含めて、お読みくださったことを深謝申し上げます。ありがとうございました。

 

23/04/18追記

clubhouseで朗読的にお話しをさせていただきました。ご参考まで。