考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

「語り」を開く

 

こんにちは。

ぼくが主催しているオンラインでの催しの一つに、毎週木曜21時からのclubhouse「100分de名著を語ろう」ルームがあります。そのために「レジュメ」として以下のURLでnoteを作成しています。その結びとして、次のように書きました。

最後にもう一つ。ショック・ドクトリンに「抗する」「抗う」ために「知性」が必要だとおっしゃっていたと思いますが、ここではちょっとカッコよく、「民衆(主体)の物語」を立ち上げることが肝要なのではないかと感じていると申し上げて、本稿を閉じたいと思います。

今回のブログは、それを敷衍する形で書き進めていこうと思っています。

note.com

 

結論めいたことを先に申し上げれば、それぞれの「私」を主体とした「語り」を再獲得、再構築する、つまり「語り」の主体者、「記述」の主体者であろうとする実践が、「歴史」における主体性を獲得することに、密接に関係するとぼくは考えているということです。

さて、既に述べ来たっている通り、ぼくはとある仏教系の教団に属しています(必ずしも、アクティブな信者とは言えませんが)。そこでは「体験談」を語ることがとても重視されています。

「体験談」というのは、それぞれの信仰実践を、それぞれが書き起こしたり、中小さまざまな集いで語り、聞きという、日常的な信仰実践です。それは、自身の信仰、あるいは、それを語る他者の信仰を「称える」ことに直結しているので、教団として重要視している信仰実践の一形態であると言えましょう。

次に問われるのは、「そこ」で「何」が語られるのかです。つまり、何をもって信仰の「証」として肯定的に語るのかが問われてきます。ぼくはここで、改めて日常的な地域活動には参加していないことを白状しないといけないのですが、ぼくの記憶では、この重要視されるべき信仰実践は、いささか形骸化していたように思われます。つまり、大病を克服したとか、大きな苦境を乗り越えたといった、「ビックイベント」こそが「体験」なのだと考えられていた節があるのです。しかし、それは違うのではないかとぼくは思っています。信仰という補助線を得ることで、自他の「生」を、いかに包摂し、肯定していけるのか。それこそが問われなければならない第一だと考えています。

この点について啓発を受けたのが、アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』(に関するテレビ番組やコミック化されたもの)でした。ご存知の通り、この著作は独ソ戦で最前線に出ていた女性たちの声や呻きを、丹念にすくいあげたものです。ぼくらが平素テレビ等で見かける街頭インタビューのように、ホイホイと答えが返ってくるようなものではありません。語り得ぬもの、語られ得ぬものについて、相互の信頼関係を醸成し、その二者間の「固有の」関係性において初めて得られた「発話」であったと思います。こうした、時として重い扉をこじ開けるようなことが、話者と同時に聞き手にも重大な変化をもたらします。

このような「先行事例」をも参照しつつ、ぼくたちは「語ること」を通して「主体性」を回復していきたいし、いけるのだと思うのです。他の誰かによって観察・記述され、操作される「客体」ではなく、自らが意思し、行為するものとして。それはつまり、「人間性」の回復に他ならないのだと、ぼくは考えます。

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今回は以上といたします。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

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