考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

映画『教育と愛国』を見ました①

こんにちは。

先日「ひかりTV」で放送(配信?)されていた『教育と愛国』を録画して鑑賞しました。あと2回見るチャンスがありますので、ぜひご覧になってほしいと思い、一文をしたためることとしました。

 

www.nihon-eiga.com

 

この作品は、自称「責任のある大人」たちが、その権力を濫用して、教育に介入しているさまを綴ったドキュメンタリーです。

冒頭から、検定と書き換えをめぐって、教科書会社の大手である日本書籍が倒産していたことを知らされます。ここですでに、大きな衝撃を受けてしまうのですが、全編これ「怒り」を覚えるシーンや発言の連続で、冗談抜きで血圧が心配になるほどです。

このまま何もせぬままでは、この国と社会はヤバい。しかし本当に怖いのは、こうした「教育」に、無防備で晒されてきた子どもたちが成長したあとです。心ある方は、この作品をご覧いただいた上で、「怒り」と「諦観」を共有していただきたいと念願します。

日本国憲法の条文

さて、この国の憲法には、次のような教育に関する条文が明記されています。

第3章 国民の権利及び義務
第26条 【教育を受ける権利、教育の義務】
 第1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 第2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 

まず、この条項を少し検討してみたいと思います。「教育」とは、誰であっても受けたことがある、つまり「当事者」だったことがあるものなので、誰もが発言をしやすいものだと言えます。しかし、このことは残念ながら、教育を巡る「議論」の混乱の元となっています。

何と言っても、教育とは国民に「受ける義務」があるのではなくて、「受ける権利」が最優先にあり、「受けさせる義務」があるのだということを、確認しておきたいと思います。

「受ける権利」の主体者とは、「すべて」の国民一人ひとりであり、とりわけ子どもたちです。しかも、「能力に応じて」「ひとしく」です。「経済状況に応じて」なのではありません。

次に「受けさせる義務」について。この義務を負うのは、一義的には「保護する子女」の親なんだろうと思うのですが、究極的には「国」が負うものだと理解しています。ここでは、「普通教育」「義務教育」とありますが、そこまでの言及をする力が今のぼくにはありませんので、将来への課題としておきたいと思います。

つまり、この「受ける権利」と「受けさせる義務」を重ね合わせようとすると、こういうことが言えるのだと思うのです。全ての国民は、ひとしくその能力に応じて教育を受ける権利(これは、能力を「開花」させる権利とも読めます)を有しており、親にはその子女に対して教育を受けさせる義務がある。そして、普通教育を無償の義務教育として制度化してサポートする「義務」を国家が負う。こんな感じでしょうか。しかしこれを、もっと自分勝手に解釈する者がいる。この『教育と愛国』という映画はそのことを告発していると考えます。

教育の「内容」を決めるのは誰なのか

前段で見た通りに、教育とはまず「権利」であって、「義務」として行われるものではないということ。その「主体者」は、一人ひとりの国民であって、国家ではないということを確認しておきたいと思います。

2015年ごろからの安保法制問題の時、「立憲主義」について一定の理解が浸透したように思っています。それは、憲法とは国民が国家(=権力者)にさせた約束事であるということでした。つまり、大ざっぱに言うと、国民が教育を受ける権利をサポートする義務を国が負いますという「約束」でした。これは、「あなた方国民は、私どもが決めた内容の教育を受ける義務がありますよ」というのでは断じてないということです。

昨今の学術会議の問題といい、科研費のあり方に口出しをすることといい、学問や教育の自由、思想や良心の自由ということが、あまりにも蔑ろにされている。そのことには、もっと危機感が共有されていいと思います。ぼくたちは、教育の「内容」を決めることまで、誰かに委ねているのでは決してないことを思い返さないといけないと感じています。

教育を行う義務(「施す」ではなく!)は、確かに行政などの権力の側にあります。しかしそれは、直ちに内容を決める「責任」があるということにはなりません。どこを読み違えると、そんな発想に行きつくのか、わからないしわかりたくもない。「カネを出すから口(と手)を出す」というのは困ります。しかも、それを「望ましい日本国民」像という、「俗耳」に入りやすいパッケージにくるんで迫ってくる。これが1980年代から、連綿と行われてきた教育への「介入」であったと思います。

繰り返しますが、教育の「主体者」とは、何よりもまず、その権利を有する国民なのですから、教育の内容についても、国民が決める権利を有しているのです。道徳とか、日本人としての誇りとか言って、自分の妄想を押し付けるのは、控えめに言って「越権行為」だろうと考えています。

教育を取り戻す

つまり、ぼくがこの稿で言わんとしているのは、どうやら「教育」を「主体者」として取り戻さないといけない、ということのようです。「公(おおやけ)」の名において、「学校」という装置に回収され尽くしてしまった「教育」を、再び一人ひとりの国民ないし、「人間」の手に取り戻す。そのことは、「人間」そのものを取り戻すことに他ならないのだとも思います。

もちろん、「学校教育」には「よさ」もありますし、学校教育でなければできないこともあるかと思います。ここでは、「あえて」私教育こそが教育の「原点」であると考えてみようと思います。繰り返しますが、ここでの目的は、学校や教職者をDis ることではないと申し添えておきます。

そして、②へ続く

と、ここまで書いて長めの休憩をしたところ、完全に集中力が途切れてしまいました。ついては、続きを②として起稿したいと考えています。お許しください。少なくとも、以下の項目を書き込もうと思っています。

  • 教育を取り戻す(続き)
  • 四権分立構想
  • まとめとして

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!