こんにちは。
今回の『生きづらい明治社会』(松沢裕作さん著)のレジュメは、第二章・三章をまとめて書いてみます。おつき合いくださいますと幸いです。
第二章 その日暮らしの人びと―—都市下層社会
小見出し一覧
①ドヤ街とネットカフェ
②貧民窟
③貧民窟のルポルタージュ
④住居と家族
⑤職業と食事
⑥都市下層社会の特徴
※①~⑥の数字は、ブログ作成者がつけたものです。次章も同じです。
章の概要
- ネカフェ難民やドヤ街の淵源を考えると、江戸時代の都市における不安定な肉体労働の労働者が視界に入ってくる。
- 1897年(明治29年)ごろの東京市内の都市下層民(貧民窟で人力車夫や屑拾いに従事していると把握されていた者)は、約47000人はいたとされている。
- 代表的ルポルタージュ=松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年)、横山源之助『日本の下層社会』(1899年)など。
- 大正期になるまで行政からはほぼ放置されていた貧民窟。
- 当時は家族の形態は不安定だった。性別・年齢層・近親関係が混在していた。
第三章 貧困者への冷たい視線——恤救(じゅっきゅう)規則
小見出し一覧
①生活保護
②恤救規則
③恤救規則の制定過程
④窮民救助法の挫折
章の概要
- 生活保護と「恤救規則(1874年=明治7年)」。1874年段階では、まだ憲法は制定されてない。日本国憲法を待って初めて、生活が困難になった人が国家からの保護を受ける権利が明記されるようになった。
- 恤救規則の「対象者」は、働けなくなるほど弱り、頼れる相手が誰もいない孤独な人だけだった。地域や家族のケアが見込めない人だけを、仕方なく、お情けで救済するような制度だった。「権利」という発想では全くなかった。
- しかし、この制度は国民一人ひとりに周知されたものではなかった。
- 1890年=明治23年11月、初の帝国議会に恤救規則に変わる「窮民救助法案」が政府から提出されるが否決される。これは、生活困窮者を助けようとすることに対する「抵抗」が強かったことの表れ。
- 法案では市町村に救助の「責任」を負わせていたことは大きな違い。
- なぜ衆議院議員の「支持」が得られなかったか。
- 自治体に「義務」があるなら、困窮者に「権利」があるとの発想になることを嫌悪した。困窮は当事者の「自己責任」との発想が強かった。
- 恤救規則で十分で、新しい法案は不要。秩序が乱れるほどの深刻な事態ではないとの認識。
- そもそも日本人は「みな」貧しいとして反対された。
- 恤救規則の廃止=1929年(昭和4年)、救護法の成立により。
- 衆議院議員たちの反応の原因=財産と性別による「制限選挙」。1%程度の選挙権者しかいなかったこと。
- 「貧しいのは努力が足りない」「貯蓄してない者が悪い」「お前だけがつらいのではない」「日本には財政の余裕がない → どのような社会のあり方によってこのように考えるに至ったか=第4章以降で扱います(別建てとします)。
* * *
今回の「レジュメ」は、一定量に達したのでここまでといたします。日を置かず、次の4章以降のレジュメに取り掛かりたいと思います。なにとぞよろしくお願い申し上げます。
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それではまた!