考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

100分de名著テキスト『福音書』を読みながら②への追記 ~「同苦」をめぐって~

 

こんにちは。

先ほど、今晩(23/04/20)のclubhouseルーム「100分de名著を語ろう」のためのレジュメを公開したところです。下線がある部分にリンクが埋め込まれていますので、ご参照くださると幸いです。

そのレジュメには、この記事に先立って書かれたブログ記事を紹介しているのですが、そこに「書き忘れ」があったことに気がつきました。本ブログ記事では、その「書き忘れ」てしまったことを中心に書き進めてまいります。できれば、そのレジュメブログ記事とを併せ読んでくださいますと幸いです。ご検討ください。

今回独立したブログ記事を書き起こそうとしていることの中心は、以下の記述についててです。

他の人との悲しみ、苦しみを映しとる、このことこそ、イエスに宿っていたもっとも特出したはたらきでした。つまり、ここでいう「目覚めている」とは、自分以外の悲しみや苦しみに向かって開かれているということだともいえそうです。

(放送テキストp.67)

このキリスト教についての言及に対応する仏教ワードは、「同苦」です。同苦とは、言い換えると「慈悲」ということになるそうです。

このテキストからの引用の直前の部分を簡単にまとめておきます。イエスは3人の弟子を伴って訪れた先で、やがて捕らわれることと、それと直結する死を予期します。主に「アッバ」と訴えかけ、3人の弟子たちには、祈っている間は起きているように告げています。しかし、この弟子たちは3人とも眠ってしまいました。

エスが要請したのは、おそらくは他者(ここでは「すべての他者」)の苦しみについて、眠ってしまってはならず、自らを開いているよう、つまり、目を覚ましているようにということであると、若松さんは述べていると感じました。

これは、まさしくそのまんま、仏教の「同苦」です。同苦とは、単に他者に苦しみや嘆き、悲しみに共感を示すということだけではなく、まさに文字通りに「ともに」「苦しむ」ということであって、そのことは「慈悲」のはたらきであり、顕われであるとされています。

以下は、ぼくの理解であり例えなのですが、悲しみや苦しみの「穴」に落ちた人を、穴の外や上から励ましたり、縄梯子を投げ入れたりするのではなくて、ひとまずは共に穴の中に入って見上げ、共にそこから出ようとすることなのではないかと思っています。くどいようですが、「例え」ですのでご注意ください。

さて、仏教者からのキリスト教批判の一つに、「愛」の限界性を挙げることがあると聞きました。言葉の遊びとも思うのですが、書いておきます。つまり、「愛」には対立概念あるいは反対概念としての、憎悪・憎しみ、無関心というものがあるが、「慈悲」はそうした対立概念がないと言うのです。かなり眉唾ものなのですが、それでも参考にしてしまいましょうか(笑)

先のエピソードで、3人の弟子たちにイエスが要請したことというのは、悲しみや苦しみにある人を前に、眠っていては、つまり「無関心」であってはいけないというだったのだろうと思うのです。つまり、慈悲の顕われとして「同苦」せよ、と要請しているのではないか。ここにおいて、キリスト教と仏教とは、またも響き合っているのです。

          *       *       *

第3回放送分についての記述は、おそらく以上となります。なおも「追記」されることがあるならば、ルームでのご発言を契機として着想したことになろうかと思います。

この原稿は、23/04/20(木)4:35 ごろに第一次の下書きを終えましたが、数時間寝かせた上での公開をいたしました。お含みおきくださいますようお願いいたします。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!