考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

録画しておいた『沈黙』を鑑賞した。

こんにちは。

14日付の「オープンダイアリー」にも書きましたが、マーチン・スコセッシ監督作品の『沈黙』(遠藤周作原作)の録画版をブルーレイに書き出しした上で鑑賞いたしました。たいへんな力作だったと感じています。

 

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

  • アンドリュー・ガーフィールド
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舞台は1600年代の長崎地方。2人の宣教師が棄教したと伝わっている先師の行方を追い、禁を破って日本に入国します。当時はキリスト教信仰は禁じられていて、「切支丹」として見つかったものは、激しい迫害を受けていました。マカオに漂着していた日本人・キチジローに導かれて上陸した2人は、信仰の支えとなる「パードレ」(=神父)を渇仰する村人たちに出会います。しかし、キチジローの裏切りがこの2人のパードレへの弾圧を招き寄せます。

弾圧する奉行たちの狙いは、信仰の「支え」となるパードレを「ころばせる」=棄教させること。殉教者を出すことではありませんでした。しかし激しい弾圧は、次々に村人たちの殉難を呼び、パードレの1人も亡くなります。棄教したと伝えられていた先師は、日本名を得て生き延びていました。そして、残る1人のパードレもついには棄教し、日本名と妻を得、輸入品に禁制の品が含まれていないかを点検する係として、余生を送ります――。

画面には、厳しい弾圧のシーンが、圧倒的なリアリティをもって描かれていきます。見たこともないのにリアリティを「感じる」のには、いつも不思議な感慨を呼び起こします。これを、権力者に対する不屈の民衆(=信仰者)という図式に落とし込んではいけません。日本には日本の伝統や信仰があり、外来のキリスト教は、それらを破壊してやまない「脅威」であって、その脅威から日本を守ることが、弾圧者たちの「使命」だったのです。とはいえ、ここにも外来の脅威に対する戦い、あるいは普遍と蒙昧との戦いという図式を持ち込めますが、それも避けるべきでしょう。ここで描かれているのは、不幸にしてすでに起こってしまった「未知との遭遇」の顛末です。現在の視点からの断罪も免罪も、するべきではないでしょう。

さて、以下からはこの映画から私が勝手に受け取ったメッセージを書いておきたいと思います。それは、一つには「宗教2世」という言い方に象徴されますが、人と人との間で、信仰という「価値」(であるならばですが)は、いかにシェアすることが可能であり、望ましいのかという点です。私はそれを、自らの「家族史」を点検し、小説のマネごとを綴ることで表していこうと考えています。

スコセッシの映像化を通じて、遠藤周作が遺したメッセージとは、信仰を貫き、そのことで讃えられている人々にのみ信仰が脈打っている「のではない」ということだろうとも思います。作中のキチジロー、イエスを裏切ったユダ、釈尊に反目した提婆達多等が、そうせざるを得なかったことにも思いを致し、いわば信仰上の「敗北者」の中にも、そして、記録にすら残らない民のうちに継がれている信仰の価値があるのではないか。それを探るのは、ある意味「冒険」にさえつながるのだろうと思っています。

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さて、以下の段落は、「書き終えた!」と思ってしばらく文章を寝かせておいた後で思い出した「追記」です。なお、テーマの解釈についての「ネタばれ」がありますのでご留意ください。「沈黙」という表題の意味を考えてみました。読みたくない場合は、ここで閉じてください。

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この表題は、誰の、何についての「沈黙」であるのかという問いに直結します。これについては、映画の作中において、生き残っていた方のパードレの口を借りて語らせています。原作は未読なので、遠藤さんの解釈であるのか、スコセッシ監督の意向なのかについては語る権利が私にはありません。

作中では、このような苛烈な状況下で、救いを求める信徒たちに対して、なぜあなた=神は「沈黙」されているのでしょうかという問いとして、まず語られます。しかしその後、直ちに同じパードレから、神は信徒同様に苦しみ、共にあったのだ、沈黙されていたのではなかったのだと、力強く語られるのです。

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以上でひとまず、この稿を終えることとしたいと思います。最後までお読みくださり、ありがとうございました。また何か思い起こしたら、別稿として書き起こしてみたいと考えています。それではまた!