考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

「読む」のこれから~考える冒険(1-1)

 

こんにちは。

昨日(23/03/12)Twitterでお知らせしたように、今日から「読む」「書く」「聞く」「話す」のそれぞれについて考えていることを書き連ねていこうと思います。4日連続で書くということではないのですが、それぞれについては、内容の点においてゆるいつながりがあると予想しています。1回目の今日は、「読む」ことについてです。中心になるのは「読書」についてだろうと思いますが、読書論「だけ」を書くつもりではないことを申し添えておきたいと思います。おおよそ、

①「読む」は体力勝負
②「読む」リズムとスピード
③「読む」ときに起きていること
④「読む」は歴史への参加

の4点くらいについて、1500~2000文字になるまで書いてみようと考えています。

「読む」は体力勝負

ぼく自身について、ぼくはあらゆる意味合いにおいて、「読書家」ではないと思っています。謙遜ではありません。かと言って、読書家と言われることが嫌だというわけでもないのです。何となれば、ぼくは読書は得意ではありません。渋々読んでいることもあります。

いやいや、そんなことが書きたいんじゃないんです。この稿の1点目として考えておきたいのは、「読む」とはほとんど体を使っている行いだということを書こうとしたんでした。

読むときに、頭の中で「声」として再生したり、読んでいる行を指やペンでなぞる。あるいは、傍線を引いたりメモを書き込んだりする。そういう体の動きがあるという点ももちろんですが、変な言い方になりますが、体という「フィルター」を通して、読む、あるいは「理解する」が成立するのだと思っています。なかなか「頭に入って」こないだけなのではなく、体が受け入れを躊躇している、拒んでいるということがあるように思うんです。

つまりは、よき「読み」を確保するためには、体も健やかに保っておくことが「得策」だと考えています。というか、考えるようになりました。必須だとか、必要だと言っていないところがポイントです。

ぼくは精神疾患を発症してから、既に20年以上になっています。双極性障害として診断が改まってからも10年弱になったでしょうか。しかしこれらは、「こころの病」という理解だけでは決して十分なのではないと考えます。もちろん、脳という器官内での障害という側面はあります。むしろ第一義的だろうと思います。しかし、人間は「全体で」病むのです。全身で病むというわけです。

これに対して、ぼくは先ほど「健やか」という言葉を使いました。健康とか、頑健とはちょっと違って、もうちょっと「たおやか」というイメージに近いでしょうか。

見出しが「体力勝負」なので、マッチョなイメージを持たれたかもしれませんが、ぼくが言いたい体(を含めた全体)の「健やかさ」とは、しなやかとか、たおやかと言った方がいいかもしれませんね。

で、なんでそういうのがいいかというと、結局「読む」を支える集中力とか、自分を作り変える柔軟さとか、そう言ったものは、精神力と体力とに分化する以前の、いわば「生命力」が支えるものだと考えているからです(慌てて書き添えておきますが、本を読めない人は、その生命力などが萎えている「から」と言いたいのでは全くありません。読書以外の人生の愉しみを味わえていれば、それで十分ではないでしょうか)。

          *       *       *

もうここまでで1400字書きました。次項には移らずに、本稿はここで終えておこうと思います。日をおかないうちに、(1-2)として「『読む』リズムとスピード」について書いてみようと思っています。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

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