こんにちは。
昨年(2022年)の10月ごろでしょうか、「#しおりを挟む」という企画を思い立ちました。これは、ぼくの「名刺代わりの10冊」について語ることを口実として、ぼく自身について語ろうという企画でした。しかしながら、2冊めに取り上げようとした大塚久雄さんの『社会科学における人間』(岩波新書)で、早くも頓挫してしまいました。
それは、少なからず多忙になってしまったこと、持病の双極性障害により生活リズムが不安定化したこと等が理由として挙がります。あと、「やりたいこと」が拡散し過ぎていたことも、一因だったかと思います。
今回は、再度その10冊について語るのに挑戦し直そうと思っています。その10冊とは、
①大塚久雄『社会科学における人間』
②村上陽一郎『新しい科学論』
③内田義彦『読書と社会科学』
④宮本輝『錦繍』
⑤ミヒャエル・エンデ『モモ』
⑥アーシュラ・K・ル=グィン『影との戦い』
⑦内田樹『先生はえらい』
⑧南野忠晴『正しいパンツのたたみ方』
⑨菅野仁『友だち幻想』
⑩若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』
です。これらは、読んだ順に並んでいます。
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『社会科学における人間』とは
この『社会科学における人間』は、1977年という、いささかというよりはだいぶ古い時期に刊行されている本です。ぼくが読んだのも1982年(!)ですから、相当なものなのですが、この書に接したことは、少なくともその後の読書傾向を決定づけた出来事でした。場合によっては、「生きる姿勢」さえも左右したものだったかもしれません。つまりそれは、本を読むことや、学ぶというのは「よいこと」だとして自分の中に位置づけられた体験でありました。
大塚はこの書で、同じ岩波新書に収められている『社会科学の方法』で提示した問題意識を引き継ぎ、マルクスの経済学とウェーバーの社会学を引きながら、社会科学という学問において、「人間」という像が、いかに見え隠れしているのかについて論述しています。その前段として、デュフォウの『ロビンソン・クルーソー』についてかなり詳しく解説しています。ですのでこのブログでも、おそらくは3回程度に分載して、この書について取り上げることになろうかと思います。
社会科学とは
実を言うと、この著作を「いま」取り上げることには、いささかの不安はあります。それは、「今さら『マルクスとウェーバー』?」という声が挙がるのではないかという点があります。今となっては、問題設定が「古過ぎ」ないか。特に、ウェーバーの資本主義論は研究史的に論駁されてはいないか。この辺りのチェックができてないのです。
「社会科学」という言葉も、今はともすると色褪せてしまっています。戦後の(という言い方にもリアリティと喚起力が少なくなってきている気がします)一時期、「社会科学」は、ある意味では「希望」の学問であったような気がいたします。しかし、今はそういう時代ではない。社会科学は、専門分化し精緻化することで、「支配と管理の学」としての性格を強めているのではないか。つまり、「体制化」しているのではないかと思われます。
それを、一人一人が自立(=自律)し自由になるためのツールとして、必要欠くべからざるものとして、共有されるためには何が必要なのかを考えられないかと思います。
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10冊を語り、「自分」を語ることで、人が人として望ましく生きるための「戦略的読書」は可能なのではないか。改めて10冊について語ろうとしている意味は、ここにあるものと思われます。
若干の追記
①池上彰さんの『世界を変えた10冊の本』(文春文庫)で、『社会科学における人間』で取り上げられているマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、「倫理論文」)に言及されていたことを思い出しました。
ウェーバー自身は「鉄の檻」と形容していた、資本主義の社会システムについて、リーマンショック等にも触れられています。
②その本では、「倫理論文」の邦訳について、岩波文庫版(大塚久雄訳)よりもよい中山元訳があることを知りました。完全に忘れていました(日経BPクラシックス版)。唯一の難点は、価格が倍以上するということです。以上、追記です。