考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

大塚久雄『社会科学における人間』(3)マルクスの経済学における人間②

こんにちは。

今回の記述で、大塚久雄『社会科学における人間』の第2編「マルクスの経済学における人間」を完結させる予定です。その後については、「ウェーバー(本文中ではヴェーバー」ですが)の社会学における人間」に直進せずに、以下に掲げる本を何人かと読んでみたいと考えています。ご検討くださいますよう、お願いいたします。

 

 

できれば、経済学を遡り、アダム・スミスにおいて「独立科学」となった経緯を確認しておきたいとも考えているのですが、パッと思いつくテキストを読んでいないため、そこの部分は保留としておきたいと思います。もう少し検討を加えてお知らせできるようでありたいと思っているので、今しばらくお待ちくださいませ。では、今日の本論に入っていきますね。

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今回取り上げようとしているのは、8~12講のうちの、11と12講です。すなわち、

11 「ロビンソン物語」に対するマルクスの評価
12 マルクスに見られる人間類型論の萌芽

です。既に書いているつもりなのですが、この連続ブログ記事の目的は、大塚さんの著作とその内容をご紹介するというものではありません。そこから、ぼくが何を汲み取ったのか、何が「いま」につながっているのかを語りたいということこそが、書いていきたいことでした。うまく行っていればいいのですが・・・。

マルクスの狙いと「人間類型論」

ここからは、おそらく「妄想」ですので、その辺り注意してお読みください。『資本論』等で取り上げられている、大塚さんが読み取ったマルクスの「意図」とは何だったのか。それについて今回は考えてみました。その「狙い」とは、経済学を相対化することで、人間の活動としての経済の「あり方」に、オルターナティブがあり得ること(それは、社会主義経済が到来すること「だけ」ではなく)を描こうとしたのではないかと思い立ちました。そのことが、人間の関係が、モノとモノとの関係として立ち現れてくるという転倒、しかしそれ故にあたかも自然現象であるかのような法則性を見出すことができ、それが経済学としてあるとしている辺りに見て取れました。ただ、これは「正しい」読みであるかは自信がありません。

そして、そういう問題意識へのトリガーが、ロビンソン・クルーソーの物語として見て取れる人間の諸行動のパターンの集積と見えたのです。

つまり大塚さんは、経済学は特定の時代と社会に現れた人間の行動様式が前提されていると指摘した上で、人と人との諸関係のありようは、他にも構想し得るとしたのではないかと思うのです。

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実はこのマルクス編については、年来苦手意識を持ってきました。ウェーバー社会学には親しさを感じていたのですが、それとの接合度、親和性と言った点が、今ひとつわかっていなかったのです。

しかし、前回のエントリーを書きながら、この書にこだわり続けてきた理由の一端を見出せたことがきっかけとなって、以上のような見解を得るに至りました。これを「収穫」とするのはためらいはあるものの、今は「よし」として、次以降の課題に取り組んでまいりたいと思います。今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

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