考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

大塚久雄『社会科学における人間』(2)~マルクスの経済学における人間①

こんにちは。

今回も引き続き、大塚久雄さんの『社会科学における人間』について取り扱います。おそらくは、第2部にあたる「マルクスの経済学における人間」を2回程度に分けて書いてみることになろうと思います。

前にこの本を取り上げようとした際、この部に入る手前で足踏みしてしまいました。それは、学部生時代に難儀して読んだことの記憶があったからだと思います。しかし、いつまでも放っておくわけにもいかないので、5回の講義のうちの前3回分、すなわち、

8 『資本論』に現れる人間
9 自然発生的分業①
10 自然発生的分業② (p.71~96)

を取り扱います。おつき合いください。

さて、そもそも「経済学」とはどういう学問なのか、どういう意味合いで、客観的な法則を追求しようとする「科学」であるのか。実は、この本では、その辺りの問題意識が伏在しているものと、ぼくは思っています。そう思いついた時、難渋と思い込んでいたこの部が、少しわかったような気がしました。もちろん、あくまで「気がした」だけであって、それは「誤読」なのかもしれませんが、少なくともぼくの側に引き寄せることはできたのではないかと思っています。

経済学という学問(あるいは、「科学」)

経済学は、そもそもどういう学問ないし、科学であるのか。まずはそこから始めたいと思います。自明なこととして、経済現象を扱う学問とされていると思います。しかし実は、「経済現象とは何か」については、言おうとするとなかなかに難しいことがわかります。ここでは仮設的に、文中の表記を流用して、「社会を成して生産しつつある諸個人」の行動の法則性を把握しようとするものとしておきます。

しかしながら、自由意志を持っている諸個人の行動に「法則性」を見出そうとすることは、いかに可能であるのかという課題が、ただちに立ち上がってきます。客観的に法則として把握することが可能であるかということです。

個々人の生産や購買行動は、むしろ「恣意的」なものとして把握されていると思うのですが、それが一定範囲の諸個人の行動の総和となると、個々人の意図や属性が捨象されて、「客体」化されていきます。それをも「疎外」とマルクスが言ったとしても、そう間違いではないと思うのですが、どうでしょうか。諸賢のご教示を乞うものです。

概念で「見る」こと

客体化されるさまざまな「経済現象」について、経済学は抽象度を高める方向で「概念化」していきます。例えば、労働とか、分業とか、価格とかというようにです。そうした「諸」概念の根本のところに、マルクスは「商品」や「価値」を据えていると書かれていたように思います。概念的な把握から、現実を再構成していくという過程が、また必要とされていきます。つまり、「現実」と「概念」との間の往復作業が欠かせないということなのだろうと思います。

人間が「抽象」されるということ

こうした概念的な把握を通じて、「より」抽象度の高い「人間」が構成されていき、それゆえ「法則的」な把握が可能となってくるというのが、現時点での理解です。

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5章あるうちの、前半3章分ですので、今回はいったんこの辺で打ち止めとしておきます。後半2章を読み継いだ上で、過不足があれば加除訂正も行おうと思います。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!