考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

大塚久雄『社会科学における人間』(0)への追補

こんにちは。

先に書いた「大塚久雄『社会科学における人間』(0)」について、一度追記をした上で再公開しているのですが、ご質問等を頂戴しましたので、さらに追記をいたします。本編に入るのは、次回以降のUpとなりそうです。ご了承ください。

今回は、

1)戦後と「社会科学」
2)学問の精緻化と、支配と管理の学
3)学問の「再人間化」をめざす

辺りについて述べることができれば成功だろうと考えています。

1)戦後と「社会科学」

第二次世界大戦が終わり(日本としては「敗戦」を迎えたわけですが)、日本には欧米型の学問が再び、大量に流入してきました。それは、さまざまな意味合いで「解放」をもたらしたのだと思います。戦前・戦中までは、禁忌とされていた自由な学問、ことに社会科学や人文学については、大きく様変わりしているのは、現代のぼくたちが想像している以上のインパクトがあったのではないでしょうか。

大塚も述べている部分はありますが、制度が変わっても、「人間」が変わらないといった問題はあったと思います。とは言っても、やはり戦後に流入してきた諸学問の成果は、まさしく「希望」だったと言っていいと思います。それは、「人間」に対しての楽観的な信頼に基づいていたはずです。

2)学問の精緻化と、支配と管理の学

しかし、そうした「希望」であったのは、永続的なものではありませんでした。学問、とりわけ「科学」が本来的に有している精緻化と体系化の傾向は、学問の「体制化」となって、「支配と管理」の学への変化として顕在化していきました。大学の反乱とベトナム戦争とは、それを象徴する事件であったと言えると思います。この『社会科学における人間』は、まさにそうした時流に抗して書かれたものと思われるのです。

3)学問の「再人間化」をめざす

「再人間化」とは、厳密に定義された用語ではありませんが、「自由」に向けての学問というものはあり得ると思うし、それはめざされなければならないものと思います。「誰の」ための、「何の」ための学問なのかを愚直に問い続けること。それこそが「学問を志向する一市民」としての心構えなのだと思うのです。

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追補として起稿したこのエントリーでしたが、どうやらこの企画のめざすべきところをも志向しているように思われてきました。それは、学問の成果を社会化し、共有するものとしての教育についても考え直すというベクトルを含むということとなります。

いま、様々な局面で「教育」が問い返されています。それは、ひとり制度としての学校教育という問題ではありません。むしろ、教育を学校から「取り返す」ことが必要なのだと思っているのです。余計なことを言うと、政治をプロ政治家たちから「取り返す」ということとも呼応するかと思います。

そうしたこと共を含めて、このブログでは論じ、語っていきたいと考えています。なにとぞよろしくお願いいたします。最後までお読みくださり、ありがとうございました。ご感想をコメントや、 Twitterアカウント @Showji_S へお寄せくださいますとうれしいです。それではまた!

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