考える冒険

※「信ずることと、知ること。」から引っ越してきました。

100分de名著テキスト『福音書』を読みながら②

こんにちは。

昨日(23/04/17)、Eテレ「100分de名著」をオンタイムで視聴しました。若松英輔さんがナビゲートする「福音書」の3回目の放送で、サブタイトルは「祈りという営み、ゆるしという営み」。前回の放送にも増して学ぶところが多く、感動を禁じ得ませんでした。

 

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第2回の放送視聴時に、ぼくはブログを既に書いているのですが、今回はその「追記」のつもりで書いてみようと思っています。なお、前回放送に関するブログ記事は、こちら からご覧いただくことができますので、よろしければご参照になってみてください。

なお、このブログ記事とは別個に、clubhouse「100分de名著を語ろう」ルーム用のレジュメを準備いたします。そちらへのご参加も検討くださいますと幸いです(毎週木曜21時から)。

さて、今回は表記の通り「祈り」と「ゆるし」とがキーワードになっています。ここで「ゆるし」と、ひらがなで書かれていることは重要なポイントだと思います。つまりこの「ゆるし」とは、「許し」と「赦し」の双方を含んでいるということです。そして、この「ゆるし」と「祈り」とは、ぼくの考えでは、差異を乗り越えようとするという点においてつながっていくものだと感じ取られています。

若松さんは、その著作の中で、非常にしばしばキーワードの表記についてのこだわりを見せています。つまり、ひらがな/カタカナ/漢字の表記の違いから感じ取られる微細な「違い」を丁寧に腑分けして受け止めていらっしゃいます。前回の記事でも、「言葉」と「コトバ」との違いについて書いた記憶があります。

また、似たような何種類かの言葉を並べて対置させ、その「違い」にこだわることから、そのキーワードが喚起するものを受け止めようとしていると思います。言葉/コトバが持っている「力」を信頼し、引き出そうとしているのだと思います。これは「もしかすると」のレベルでしかないのですが、経済史家の内田義彦さんをお読みになっているからなのではないかと考えます。この点については、いずれ内田さんを論ずる機会を設けて検討することもあろうかと思っています。

今回は、「祈り」と並べられた言葉は「願い」でした。この両者の異同を比べることによって、では「祈り」とは、あるいは「祈る」とは、人間にとってどのような意味合いと力とを持っているのかを考えようとしていると思うのです。

もちろん、そのことによって、「願う」ことを貶めたり否定したりしようとすることが目的なのではありません。「祈り」「祈る」ことが持っている本源的な力や可能性に光を当てようとする作業なのだとお考えになるのがよろしいかと思います。

極めて日常的な営みである「願う」とは、例えば健康を願う、受験や事業の成功を願うという場面で使われることがあります。これはしばしば、「より早く」「効率的に」かなうことが望ましいことであり、ある意味では神仏、または自然に対して条件を提示し、取引をするようなものであることさえ指摘し得ると言うと強過ぎでしょうか。

あるいは、こうも言えます。より強く願うことが、その願いがかなう条件であるという発想になりやすい。ここには、例えば供物をヨリ「多く」ささげるということが入り込む余地が生まれるとも思うのです。しかし、放送で取り上げられていた、「祈る」というのは、そういうことでは「ない」。むしろそういう「外的」(になりやすい)条件やその違いを乗り越えてつながり合い、響き合わせようとする営みであり、働きであると言われてた(ように感じます)。

表記の違いや、類似する語彙を並べることには、他の組み合わせもあります。先に触れた、違いや差異を乗り越えて、思い(想い)を満たし、響かせようとすることが「祈り」だろうと思うのですが、そこには、例えば神や仏の「御心」、自然のリズムや律動・調和ということ、つまり、人智を超えいずる何事かを、「みる」あるいは「しる」、「かんじる(かんずる)」ことと、極めて近しい「はたらき」が駆動しているように思われます。

ここでぼくは、「しる」「みる」「かんじる(かんずる)」を、いずれもひらがなで表記しました。この三つには、いずれも何種類かの漢字表記が可能です。

「しる」は一般的には「知る」と書かれます。しかし、他方で「識る」を当てることもあります。「みる」も、「見る」「観る」「看る」等の表記があります。そして、「かんじる(かんずる)」も、「感じる」と「観じる」とがあります。これは、どれがヨリ高次で望ましい精神的なはたらきであると考える必要はないと思いますが、ヨリ適切なタイミングでの使い分けは可能だろうと思います。

ここでは、「祈る」ことと関連づけようと思っているので、「識る」「観る(または、看る)」「観ずる」の方が、ヨリ親和性が高いと思われるのですが、いかがでしょうか。

ここまでで、既に1900字ですので、少し先を急ぎますね。

つまり、「祈る」とはぶっちゃけて言うと、自分を「識り」、宇宙や自然のリズムを「観る」、あるいは「観ずる」ことなのだと思われるのです。本来的な自分を見つめ、そこに立ち返ろうとする働きが、「祈る」ことに他ならないのだと考えます。そして、それは「満たす」とか「響く」こととも通じ合うのだと思うのです。「響く」には、互いの間に共通点がないと響き合いません。差異を乗り越えようと指摘した由縁です。自他の差異を乗り越え(「解消」ではなく)ようとするベクトルが含まれている「働き」なのだと考えます。

ちょっと意外と思われることを書きます。例えば「南無妙法蓮華経」というお経(題目)がありますね。この「経」というのは、「響き」であり、「音律」「律動」なのだとどこかで教わった覚えがあります。分子は振動し、宇宙は大きなリズム(律動)で運行している。そこに、律動=「経」を見る(「観る」かな?)。そこに自らを一致させていこうとすることが、「祈り」だということだったかと思います。

これは、決してヨリ大きなものの中に、自らを解消させて、おのれを空しくするということではありません。たぶん。より本源的なものの「顕われ」を乞おうとしているのだと思っています。

さて、最終コーナーに入りましょう。「祈り」と「ゆるす」についてです。まず、この「ゆるす」は、罪を犯した人を「ゆるす」とか、何かの物事を「許可する」ということにとどまるものではありません。(法的な)罪をゆるす、あるいは物事を許可するということは、身分や権利/義務関係の高低や大小といった、「非対称性」が前提されています。つまり「差異」です。しかし、ここ(=番組)での「ゆるす」とは、そうした際や非対称性を乗り越えようとする「はたらき」としてあらわれているものではないでしょうか。そして、それらの「ゆるし」の基盤あるいは「起点」として、まず自らをゆるすということがあるのではないかと思うのです。

かなりくどくどと述べ来たってしまいましたが、ようやくここにおいて、「祈り」「祈る」ことと、「ゆるす」こととに共通点とか、響き合いがあると言えるのだと考えます。

「祈る」ことも「ゆるす」ことも、確かに崇高で気高いはたらきではありますが、何か特別な人びとにだけ開かれているものではないと指摘するのは重要だと思います。ぼくたちは、「いま」生きているその中に、現に祈り、ゆるしがあり、それを行っていることを見出し、発見することが、とても大切なのだと思うのです。

 

 

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長々と書いてしまいましたが、最後までお読みくださいましてありがとうございました。ここで書いたことは、テキストを読み、番組を見て感じたことをつづったまでのことです。clubhouseのルームでは、一応こう書いたこと(ブログも書いたので読んでくださるとうれしいです、的な)をお知らせはしますが、基本的には番組とテキストに即して進める予定です。レジュメも改めて起こす予定ですので、そちらもご覧ください。それではまた!